にわとり以下の記憶力。でも何か自分の手で。

じおじおじお。

不穏な音をたてながら、この記事を書いている間にも僕の脳細胞が次から次へと吹き飛んで行くのがわかる。 この音はとても嫌いだ。 また何か抜けてるんだなぁ...と毎度心がしんどくなる。その何かさえ分からないまま、しかし音は鳴り続ける(ひょっとしたら忘れているものなんて無いのかも...??...なんて思ってしまった対象がほんとは存在していて自分にとってとても大切なものであったら...)。まぁ嫌なことに関しては忘れたほうがいいこともあるかもしれないけど。にしてもあまりに物忘れが多い。多すぎる。んぁ、さっき考えてたんだけどな...何やろうとしてたんだっけ...。それ何のことですか?今はなしてたじゃん!聞いてなかったの?()とか。そんなの日常茶飯事。。ん??茶飯??チャーハン??唐突すぎますが(目の前のことが気になり本筋からすぐ逸れる...)、日常茶飯事。。。いったいどんな言葉なの?引っかかってしまいました。。

高尚な真理も、平凡な毎日の暮らしの中で、それこそ、ありふれた行為のごとく実践されてこそ意味がある。

日ごろ私たちは、お茶を飲んだり、食事をしたりすることを毎日繰り返しています。そのように、ごく日常のことを表しています。

そこから転じて、特に取り立てて言うほどのことでもない、何の変哲もない当たり前の行為を意味する言葉に「日常茶飯事」があります。

お茶は昔から日本人の生活の中に根付いている飲み物なので、このようなお茶に関係することわざや慣用句が多くあります。

...

どこででも見かける平凡な出来事、ありさま、と現代の私たちはこのことばをそれこそ日常茶飯に用いているが、本来はもっと大切に使いたいことばなのです。

仏教では、あり合わせのものを「家常」と呼びました。つまりは、家の中にいつもあるもの、「家の常」ということです。

当然、誰の目にもありふれた、なんでもないもの、どうでもいい習慣にしか映らない。

そこでまず「家常茶飯事」ということばが生まれました。

そして、一般的に用いられるようになり、「家常」が「日常」にかわり「日常茶飯」になったようです。

blog.buddha-osie.com

なるほ。茶飯でお茶づけ~とかじゃなかった。代わりに”真理”とか壮大なワードが出てきてしまった...(思ってたのと違う...(笑)

真理とは実践されてこそ意味があるとか、真理なんてたかがこんなものだとか書いてある...(真理とか難しいお話は良く分からないのでそっとしておく...

 

そこで。。

 

もし忘れてしまうという絶え間ない行為が、お茶を飲む頻度と同じぐらいに抑えられたら...何の変哲もないぐらいのことになってくれたなら...

....と考えるのもいいが、....(考えようとしたけどなぜかやめた)

 

せめてお茶を飲む毎に何か記憶を呼び起こせたらなぁ...

(忘れない解決策を見つけることから忘れたことを思い出すことに脳が勝手にシフトチェンジ)

 

 

....あ、それなら!!!

 

僕のにわとり以下の記憶力しか持たない脳みそがこともあろうか一瞬フル稼働した。

古くから伝わるあの秘伝の”うし茶”を。。。。

めずらしく脳みそが期待とともに嬉しそう。...しかし、うし茶って本当に飲めるのか??どこにあるんだ?...一瞬の喜びは一瞬の戸惑いによって吹き飛んでしまった。。。そんなことも忘れて(にわとり)本能の赴くままに喉渇いたぁ~と、小さい頃から何度も下痢して入院した先でも(病院に連れて行ってくれた)親にせがって飲むほど大好きな牛乳をガブガブ飲みつつ書いていると、薄っすら記憶がよみがえった。あれ?うしが書いてある。。

 

僕は牛乳無しでは生きていけない。小さいころから偏食で、成長する中で食べられるものも少しは増えてきたが、今でも偏食だ。みんなで集まって何か頼む時いつもびくびくしてる。大抵落ち着くピザでさえ食べられない(一人だけ寿司とかよくある)。スポーツするといつも他の保護者に心配されてた。昼食にほとんど何も食べないから。食べてもウィダー1本口に入るかどうか。何食べたらそんなに身長伸びるの?に対していつも”牛乳飲んでるだけです!”と答えた。冬でも夏でも、どんな時でもキンキンに冷えた牛乳だけ飲めればそれで十分なのだ。今だってそうだ。高いお酒なんかよりキンキンに冷えた牛乳がいい。そんな僕を見ていた親戚はいつも今度会ったら牛買ってきてあげるからな!と言ってくれていた。ずっと信じて待っていた。誰も買ってきてはくれなかった。

僕が生きていられるのは牛乳があるからだ。

 

うし茶がどんなものであるか。そんなの分からない。でも僕にとってそれは牛乳で置き換えられそうだ。

 

どうでもいい話に聞こえるかもしれないが、僕の人生を構成してくれたと言ってもいい牛乳。その生みの親である”うし”という存在。僕はようやく、このつらい4年間の中で、小さいころから待ちわびていた”うし”さんにようやく出会えたのだ。しんどい時支えになってくれた。本当に大きな出会いだと思う。一度でも牛乳の杯を交わしてみたい。

 

じおじおじお。すぐ忘れてしまう。しかし、記憶喪失になり、空腹感、満腹感すら忘れてしまっても、僕は本能の赴くままに牛乳をおいしいおいしいと飲み続ける自信がある。日常茶飯事。実践されてこそ意味がある。毎日牛乳ガブガブのおかげで大きくなったと思ってるし、無意識のうちの行動が大事なんだなとわかった。牛乳ガブガブと同じくらい無意識に、創作するのが日常茶飯事になれば、その真理がわかるのかもしれない。

 

 

 

P.S

困難は分割せよ。わかんなぁい!とか忘れちゃうー!とかあるあるだけど

もっとちゃんと掘り下げて行けば少しずつでも解決し進歩するはず。

やりたーいとか言うその瞬間に手を付けちゃうの大事!!

うまーく伏線張って回収してみよう!とか難しい。何分か経ったあと読むと自分の文章恐ろしく気持ち悪いし。後々この記事見返しても何描いてるのか分かんねぇ!ってなってるよなぁ(いい意味でも悪い意味でもまた忘れてる。

 

 

無意識のうちに勝手に作ってしまったものだけど載せときます。

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